休んだ翌日の給食時間はパラダイス!

休んだ翌日の給食時間はパラダイス!

こんにちは、花崎です!
HSCと、発達特性ある子の偏食は「ワガママな好き嫌い」ではなく「理由あって食べられないものが多くて、食べられるものがない」状態。
そんな子たちの苦しみ、給食。

感覚過敏による偏食など、特性ある子たちの声を拾いながら、
個人の尊重、多様性への理解について考えてみたいと思います。
ちょっと長い記事になるけれど、不登校にも関係していることなので語ってみますね!

食事は自由にとりたい、楽しく食べたいよ♡

偏食ある子にとっての「給食」は苦しい制度

表題の言葉は、実は私の娘の口からポロッと出てきた言葉です!笑
解説すると、偏食のつよい子は、毎日毎日の給食時間が地獄のようだそうで。
よくある理由としてはこんなこと。
○感覚過敏により食べられないものがほとんど
○配膳された分量は多すぎて食べられない
○感覚過敏の影響で食べられないものを、よそわれた分食べきらねばならない
○給食を残すことはゆるされないというルール〈先生や友だちからの目が厳しい〉
○友だちに偏食をいじられることも
○(これらが毎日なので)給食にたいする憂鬱
○吐き気との戦い(触覚/嗅覚過敏の影響で、苦手を食べようとすると吐いてしまう)
○一人居残り給食、静かな教室や廊下で食べられないものと向き合い続けるツラさ
○食器を返しに行ったらもう給食室が閉まっていて、どうしてよいかわからない

さらに発達特性のある子には、こんな困りごともプラスされたり…
○(中高校生では)食事中もお喋りの輪に入り楽しまないとノリが悪いと指摘される。器用じゃないから食べるか喋るかのどちらかしかできない。喋り続けてしまったり、または黙々と食べ続けたりでいじられ凹む。一生懸命テンション上げて喋ると、結果、食べるのが人より遅れてかなり困る
○グループで食べていると、友だちの声が聞き取れず。複数人で喋るのは苦手。会話についていけないことも。そういう「出来なさ・不器用」を友だちに指摘されることが苦しい
○箸使いがうまくできず、恥ずかしい

知り合いの子は、どうしても食べられないものをわざと床に落とすしかなかった…と言っていました。うちの子たちは、そういうことができず、給食室が閉まるまで食べていたそうです。

休んだ翌日の給食はパラダイス!

どうして”パラダイス♡”と表現したか、わかりますか?
発熱等で学校を休んだ次の日は、まだ食欲や体調が回復していないだろうと先生が判断して、厳しい給食規制が緩和され、「量減らし」や「お残し」を許してくれるからだそうです!
〈切ないでしょう?〉

娘のこの”翌日パラダイス”の言葉を聞いて「わかるーーーーー!!」と発言した子がいました。
ちなみに私も「わかるーーーーーー!!」と思いました。

大人の「食べられるはず」「食べるべき」「残すなんて…」「偏食はダメ」という視線が、毎日毎日自分を責めてきて。私もホントに苦しかったです。
そしてそれが免除される日が、体調不良の日。
風邪をひいてるからしょうがないよね、まだ食欲ないんだね、という優しさ。
心に沁みる…嬉しかったです♪

ここで申し上げたいのは、そういう誰もが納得するような理由がなければ、感覚過敏で食べられないとか、食欲がないという個人の都合は「ワガママ」と判断されて人に戒められてしまう現状。
(食欲が出ないのだって自律神経の乱れが影響しています。また発達特性があるとエネルギーの総使用量が定型発達さんよりも少なく、お腹がすかないこともあるそうです)

納得する理由がないと、個人の意思は尊重されない世界

子どもは大人の言うことを聞くべき。学校には学校のルール。食事マナー。好き嫌いなく食べるべき。
そういう暗黙のルールが、昔から引き継がれて現代にいたっていて、そのような理屈のなかで「個人」がないがしろにされている気がします。

よい例えではないですが、学校に重い病気の治療中で食欲の無い子がいて、一緒に給食を食べていたとして…。
その子に「全て食べるまでは許さない」「残すことは食材をムダにすること、感謝の心がない」「配膳時にそれ以上減らすなんてワガママだ」と伝えたら、それは相手の都合を無視した、食の指導をすることばかりに重きをおいた言葉になるかと思います。
また、皆んなと同じように給食を食べることができないのだから、この場にいることはダメ、この場にいたかったら皆んなと同じルールに従え、と伝えたらハラスメントです。

なぜこんな例をあげたかというと、病気が、人々にとっての「理由と結果をつなげるもの」になるからです。闘病や投薬により食欲がないのかもと、想像力の無い人でも想像することができます。←ちょっとキツイ言い方しましたね。でも私たち当事者からすると、本当にそのように感じてしまうのです。偏食を許す条件として病気やアレルギーならば皆が認めてくれる、それ以外なら絶対に認めない、という悲しさ。

目に見えない特性「HSC」や「発達特性」

目に見えない特性「HSC」や「発達特性」。
特性は目に見えないし、皆んなにとっては(病気と違って)体験したことがないし、それについて学ぶ機会もないし情報が周知されていないので、「理由と結果がつながりにくい」ですよね。だからこそ、特性があるから給食が食べられないのだろう、とは誰も考えてくれないのです。

病気で食べられない子と同じように、ちゃんとした理由があって、その結果として「食べられない」という様子が表に出てきています。
困りごとが相当大きいために、問題が見えている状態です。
偏食少食は本人の気の持ちようで治せる類のものではありません。そこに「気づく」ためには、この問題の発信を諦めず、もっともっと多くに周知してもらわねばなりませんね。

人間には人情的な助け合いの心あり、仲間を思いやることができる…私はそれをとても素敵なことだと思っています。
その精神で、困っている子(人)には優しさや、思いやりの手を差し伸べる、のが温かい対応ではないでしょうか。見守る、も温かい対応。否定しない、も温かい対応です。
そういうのを教えるのが「学校」という教育現場で、お手本を見せてあげられるのが先生♪
そうして個人差を認めることが「多様性を認める、個人を尊重するってことでもあるよ」、反対意見には「あれはワガママじゃなくて困ってるんだよ」って、低学年のうちに教えてあげてほしいです。

もし困りごとの本質を理解しないままに、ただ「個人の自由をゆるすとワガママを助長する」「(給食の場合)地球や生き物を大切にする精神に反する」とその子を批判したら…
皆んなと同じようにできない子を否定する、批判してもいい、出来ないダメな人と決めつけていい、という態度を子どもも覚えてしまい、成長して社会人になってもなお多様性に理解を持てず、悪意なく思ったことを口にして他人を傷つけてしまう、皆んなと同じに出来ない人を批判してしまう、そんな人たちを生み出してしまわないでしょうか。

人には個人差があるという当たり前のこと!【トイレ編】

以前静岡新聞で山崎ナオコーラさんのコラム、トイレに行きたくなるという生理現象に対して「行ってもいいですか?」と先生に聞かねばならず、人の自然な生理現象までもが人に管理される、そこまで自由がない国は日本ばかりでは? という意味の記事を読みました。
〈記事を保管しておらず、言葉に違いがあるはずです、すみません、意図は同じかと思います〉

鴻上尚史さんも著書の中で、生理現象のトイレに対して、先生に許可をもらわなければ行けないルールはおかしい、諸外国ではありえない、とおっしゃっています。じゃあダメだと言われたら行かないのか…と。

私はこのように思います。
生理現象や身体の特徴ほか、人には個人差があるという当たり前のことを、もっと尊重する社会になってほしい。

10分あればトイレ休憩に行けるはずなのに、その10分に行かず授業中に行きたくなるなんてことがおかしい、皆んながそんなことをしたら授業が混乱する、規律が乱れる、という学校側からの暗黙の圧力。それこそが、一方的な意見では?

例えば発達の特性ある子は、10分の休憩時間もうまく使えているわけではありません。まず、後ろのロッカーから次の授業の教科書等を持ってきて準備するだけでもアップアップしているのです。
物がうまく探せない子、何をやったらいいか混乱する子、段取りが悪く一つひとつの動作に時間がかかってしまう子、前の授業の終了が遅れただけで…、友だちから話しかけられただけで…、次の授業の支度が間に合わない、トイレに行けない、そんな子たちがいるのです。

トイレは混み合っています。授業開始時にきちんと席についていないと大声で叱責する先生がいた場合、前の授業が押して、休憩時間はあと6分しかないのにトイレに行って大丈夫かと、心配になり行けない子たちがいます。
HSCもそうかもしれません。女の子は生理のときなど、さらにトイレに時間がかかります。
教科係で次の授業の先生を呼びに行くとか、荷物を運ぶなんてことが課せられていたらなおさらです。トイレに行きたくても行けなくて。理由はともあれ授業中に我慢の限界!ってこともあるのです。

うまくトイレに行けず…または過敏性腸症候群の下痢やガス溜まりなどで頻繁にトイレに行きたくなる、など、個人には個人の理由があります。学校のルールはわかっていて極力それに合わせようと努力もしているのですが、どうしてもそれに合わせられない日もあります。
授業中なのにどうしてもトイレに行きたくなってしまった、というときに、褒められたことではないけれど「トイレに行ける」という自由と保証があれば、人は極度に緊張しないで済みます。

※黙って教室の後ろから出てトイレに行ってもよいルールができれば、心配性のHSCや過敏性腸症候群の子など、救われる子たちが大勢います! 大便をからかわれる心配もなくなるし。
そういう理由による不登校も防げます!

個人の尊重・多様性への理解について「まとめ」

給食の話をするはずがトイレの話も出てきてしまいましたが…笑

多様性を蔑視しないで温かく受け入れる社会になってほしい。
人間は、見た目が似ていても、皆んな同じではありません。
能力も、体質も、すべてに個人差があります。

学校のルールについていける子、いけない子。
勉強のできる子、苦手な子。
給食をもりもり食べられる子、少食な子。
ついていけない子〈人〉を排除するような思想は、許されていいわけがありません。
許されるはずがないんだけれど、でもなかなかそちらが世間のルールにならず、未だ少数派の人に対して非情な視線や言葉が飛び交う現状があるので、だからあえての障害者差別解消法だってできたのではないでしょうか…

個人の意思や自由が認められにくい、個人差というものが認められない今の学校や社会。
そういう場所での生活に苦しくなっている子どもたちがいます。
先生だけでなく友だちの目も厳しくなっていて、苦手を指摘されることも一因です。

不登校がこれだけ多くなってきています。
目に見える様子から「ワガママだろう」「なぜ出来ない?」と考えるのは、尚早です。
その言葉や態度がどれだけ人を傷つけるかを、皆んなで語り合っていきたいです。
障害のある人もない人も、特性がある人もない人も、すべての人が、ともに住みやすい社会が求められているのです。

苦手があるから学校がイヤになって不登校になる…のではないのです。
特性があったって、心が追い詰められなければ楽しく通えるのです。
特性があったあって、給食が苦手だって…体調不良の日の給食はパラダイスなんです!
その意味を、皆んなで考えていきたいですね!
全肯定・全承認の精神を広めていきたいです!