映画『だって しょうがないじゃない』
こんにちは、花崎です!
先日、清水あすなろ福祉会 ともの家さんの映画上映会に参加させていただきました。
貴重な映画をみせていただいて、本当にありがとうございました!!
タイトル『だって しょうがないじゃない/坪田義史監督作品』
発達の凸凹
発達障害を抱えながら独居生活を送る叔父の日常を、発達障害と診断された映画監督が取り続けた三年間【パンフレットより】

映画をみての感想など
*「だって しょうがないじゃない」というタイトルの言葉は、発達障害のある人側からの呟き「だって しょうがないじゃない、いろいろあるけど、しょうがないんだよ、ありのままを受け容れてよ」という穏やか口調の静かな呟き&メッセージのように、私には思えました。
きっと当事者だったらそう思うんじゃないかな、と。監督だってそう…、まことさんもそう。
*他人の特性、他人の気持ちのすべてがわかるものではない。わかろうとしているだけで、わからない部分が多いかもしれない。それでもわかろうとすることは、一人の人間を大切に尊重する行為であり、その想いは必ずや温かみとなって相手に伝わるものと私は信じている。
*映画の大半で坪田監督は、特性強い叔父のまことさんを尊重し、優しい相槌をうつ。どの言動も見守る。そうそうできることではない。監督はADHDとのことだから、まことさんの特性(広汎性発達障害)のことはそれほど(実体験としては)知らないはず。それでも一切を否定することなく寄り添う。その姿に大きな愛と優しさを感じる。
*メディアが特性を伝えても、特性の一部分だけの切り取りや、ありふれたところの発信のみでは、特性を知らない方の理解には誤解が生じることがある。坪田監督は、例えばまことさんの同じ動作を何十回も淡々と繰り返す様子を、ただ無音の中で撮り続けていて。その行為の記録を途中でカットしたりしない。だからこそ、まことさんのことも、特性もよく伝わってくるし、他の映画にはないリアルな情報となっている。まことさんの人柄も伝わる。(かわいらしく思った✨)
*そういう特性のある方が「自分の住処(家)を失う」という事態に、どれほどの大きな不安を感じたことだろうと想像した。冷静な反応のまことさんに感慨深い。安心の住み慣れた場所を離れることになるまことさんだけれど、施設など、次の住処を探す過程で、まことさんはうなだれて道を歩く。監督はまことさんへの映画序盤で見せた「すべて尊重」の姿勢を崩し、意見の言葉をかける。愛があるからこその心配と、模索、説得。だけど「その行為はまことさんの気持ちに添うことができているのか?」と自問するシーンが印象的。まことさんの沈黙に対し言葉をかける監督のシーンが、まことさんの気持ちを考えると切なかった。まことさんが黙っているのは、返すべき言葉を見つけられないからではなく、施設には行きたくない思いや、とてつもなく大きな悲しみや不安にのみこまれているからなのではないかと想像した。現実と向き合うには、考える時間や安心が必要。だって、洗濯物1枚畳むのにも、何十回も畳みなおしするくらいの方なんだもの。すぐに答えなんて、出せないだろうと思った。パンフレットにもある言葉「親亡き後の障害者の自立の困難さ」「障害者の自己決定や意思決定の尊重」「8050問題に伴う住居課題」。たくさんのことを考えさせられる。
さいごに
*発達特性については、その特性が重いほど困難が大きいとは限らない。映画のなかでまことさんは、自由に生きている。出かけてみたいところに出かけていき、多くの支援を受けている。訪問してくれる傾聴ボランティアの方、福祉課の方など。そうして公的支援に繋がった方がいる一方で、私の扱う発達障害グレーゾーン(発達凸凹・非定型発達)の方たちは、特性を人に理解してもらえず否定され続けて二次障害になったり、発達の特性を周囲に隠していたり。卒業後もクローズ就労し、職場でもダメ出しの連続で、就労ができない心身の状態になるほど苦しんだりしていてもなお支援のまったくない世界を孤独に生きていたりする。そういう人たちの親亡き後。それも大変に切ない。経済的にも苦しい。ひきこもったり動けなくなったりもする。発達の特性は軽いと言われても、特性が無いのとは全く違う。困難だらけ。人に理解されないという、違う困難がある。そういう方たちへの支援も社会の大きな課題。そういう子を独りで支える母がたくさんいることを、私はカウンセリングで知っている。
*独りで支えるには、あまりに大変。私はそう思う。そんなときに頼れる場になりたい。